カール・レーヴェの生涯と作品


Anton Heydtによる肖像画(1911)


 カール・レーヴェは17961130日、ハレ近郊の炭鉱の町レーベユーンに生まれた。
 幼少時代の数々の思い出は、後のバラード創作の原点として自伝に詳しく記されている。音楽の手解きは小学校の校長だった父から受けた。10歳の時、有望なボーイ・ソプラノとしてケーテンの合唱隊に入る。その二年後にハレの高等学校に入学した。まもなくレーヴェの才能に目を留めたヴェストファーレン国王ジェロームから給付金を得て、D. G. テュルクの下でピアノと作曲を学ぶ。1817年、ハレ大学神学部に進学。その翌年にゲーテのバラード《魔王》を作曲した。ちなみに、レーヴェより二ヶ月遅く生まれたシューベルトは1815年に《魔王》を作曲したが、未出版だったため、レーヴェはその曲を知らなかった。1820年、レーヴェはイエナにゲーテを訪問し、71歳の文豪とバラードの本質について熱く語り合った。 

 同年、シュテッティン聖ヤコビ教会オルガニストのポストが空く。審査員として呼ばれたベルリン・ジングアカデミー指揮者ツェルターは、当時まだ世に知られていなかったバッハ《マタイ受難曲》のテノール・アリアをレーヴェに初見で歌わせ、彼を推薦した。若干24歳のレーヴェは高校教師の職にも就き、1821年には市音楽監督にも任命された。

 私生活では1821年に結婚。しかし、妻は長男の出産後に死亡する。レーヴェは1825年に優れた歌手のアウグスト・ランゲと再婚し、四人の娘を授かった。

レーヴェが四十五年間にわたり活動したシュテッティンは、学問的には進んでいたが、芸術家の交流は少ない都市だった。シューマンは早くも1842年に彼を「孤島の王」と呼んでいる。そんなレーヴェにとって重要だったのが、夏の休暇を利用した演奏旅行である。彼はドイツ諸都市の他、ヴィーン、ロンドン、ノルウェー、フランスにも出かけて歌曲リサイタルを開き、自作を世に紹介した。彼の歌は各地で喝采を浴び(容姿端麗なレーヴェは舞台受けもした)、ヴィーンの人々は彼を「北ドイツのシューベルト」と呼んだ。

レーヴェはオラトリオ《エルサレムの破壊》やオペラ《三つの願い》でも成功を収め、1837年にはベルリン・アカデミーの会員に選出された。だが、183040年代に極めた彼の名声も、50年代に入ると鳴りを潜める。レーヴェはもう殆ど旅行には出ず、家族と穏やかな日々を過ごしながら作曲を続けた。代表作《時計》や《詩人トム》はこの頃に書かれた。1864年に卒中で倒れ、1866年には静養のためキールヘ移住。そして1869420日、再度の卒中発作により72歳で死去した。  
 

 生涯に500以上の声楽曲を残したレーヴェは今日、ドイツ歌曲史において、バラードというジャンルに独自の芸術的価値を与え、それを完成の域にまで高めた作曲家として評価されている。

音楽としてのバラードの確立の前段階に、詩としてのそれの興隆があった。バラードとは「韻文で書かれた語りもの」と説明できるが、ドイツでこのタイプの詩が流行し始めたのは18世紀末である。その背景にはバラードの題材である民謡への関心の高まりがあった。それまで粗野な民衆の歌として軽視されてきた民謡が、自然で瑞々しい感性の発現として注目され出したのである。民謡の収集と出版はイギリスで始まり、ヘルダーを通じて疾風怒濤期のドイツ文学界に波及した。主なバラード作家に、ゲーテ、シラー、ビュルガー、ウーラント、フライリヒラート、フォンターネ等がいる。


 生地レーブユーンのマルクト広場に立つレーヴェのブロンズ像。
背景に映るのは、レーヴェが洗礼を受け、
最初にオルガンを弾いた聖ペトリ教会である。
彫刻家リーデル(Theodor Riedel)による1946年の作。

 バラードの作曲で最初に後世に道を拓いたのは、J. R. ツムシュティークである。彼はとりわけ通作歌曲形式による(詩節毎に同じ旋律を繰り返す有節歌曲と違い、歌詞の内容に応じて新しい旋律を付けていく)作品に功績を残し、レーヴェとシューベルトに影響を与えた。自伝によると、レーヴェは彼の作品に「深く感動」したが、問題点も見出した。音楽が詩に「完全に従属している」こと、統一性に欠けること、そして「よりドラマチックであるべき」ことである。レーヴェはこれらを自らの課題とし、独自の方向性を模索した。その結果レーヴェのバラードは、制約された数のモティーフが全体に統一感を与えると同時に、その内部で十分な変化とドラマチックな効果を生むものとなっている。歌は時に朗々とした旋律よりメリハリの効いた語りを優先し(これがシューベルトの作風との違いである)、ピアノは歌から独立して音画的手法を駆使した状況描写を行う。そうして歌詞の意味内容を充分に表現した上で、彼の音楽は言葉を超えた領域に踏み込んでいく。

素材を限定して最大に活かすというレーヴェの試みは、バラードという詩の特性に合致していた。バラードは、壮大に展開していくドラマとは対照的に、一つの出来事を掘り下げることで内なる世界を究めようとする芸術だからである。それはまた、一つの完成した叙情的世界を歌い上げるリートとも異なる。リートはいわば歌い手の独白であり、聴衆がいなくても成り立つ。それに対して本質的に作者の「直接的な語りかけ」であるバラードは、聴衆の存在が大前提である。バラードの作者は、演奏者を通じて聴衆に直に語りかける。話者と聞き手が同一の時空を共有するなかで、物語世界がリアリティを伴って次第に立ち現れてくる。

レーヴェは、バラードを発表した1821年から1868年に至るまで、この作風を貫いた。彼は自作を聴衆の顔の見える集まりで披露し、その反応を見ることで、確信を深めていったと思われる。彼のバラードは、19世紀半ば頃までは、教養と社交に重きを置く時代の風潮と相まって人気を博した。だがその後は、バラード自体への一般の興味が薄れていく。ヴォルフ、シューマン、ブラームス、マーラー、R. シュトラウスといったロマン派歌曲の巨匠もバラードを作ったが、彼らの作品はリートと明確には区別されない。その意味で、レーヴェは類稀なる真のバラード作曲家だったと言うことができる。


  (瀬尾 文子・日本カール・レーヴェ協会HP担当、東京大学教務補佐、専門:音楽社会学)